「そばがき」

 「おい、かぁさん。そばがきもってきてくれ!」
 これは、藤次郎が玉珠にプロポーズして、一週間後、玉珠の実家の応接間に藤次郎と玉
珠が並んで座り、座卓を挟んで床の間を背にした玉珠の父が開口一番に言ったせりふであ
る。
 「…なんですか、おとうさん。いきなり…まだ、藤次郎さん何も言ってないのに…」
 とりなすように、玉珠の母が言うが、
 「おう、何も聞かなくてもこの状態なら何を言われるか判っている!」
と、言って玉珠の父は腕を組んでそっぽを向いた。
 玉珠の実家のある地方では、気に入らない客に対する振る舞いとして、そばがきを出す
風習がある。代わりに、気に入った客にはその場で手打ちそばをご馳走するのだそうだ。
 そばがきを食べたら、その家を出て行くのだそうだ。京都の”ぶぶづけ”に近いものら
しいが、京都のそれは”食べたら縁を切る”に対して、これは縁までは切らないらしい…
 「おかあさん、私にもそばがき頂戴!」
と、いきなり玉珠が言った。
 「何だと?」
 驚いて、玉珠の父は正面に向き直り、座卓に身を乗り出した。
 「だって、おとうさん、まだ藤次郎が何も言わないのにひどいじゃない!こんな一言で
片付けられるようなら、わざわざ藤次郎を連れて帰ってくるんじゃなかった…」
と、言ったところで藤次郎が玉珠を手で制した。
 「ご立腹を承知で申し上げます。手順がいささか逆になりますが、おとうさん、おかあ
さん、玉珠さんを私にください」
と、言って藤次郎は手を突いた。
 「………」
 玉珠の父は、またそっぽを向いた。その態度に玉珠は、
 「わたし、出て行きます。帰ろう、藤次郎!」
と、声を荒げて言った。そして、膝立ちになり、藤次郎の腕を取ると、父親のほうをキッ
と睨み付けて、
 「わたし家を捨てて、藤次郎と一緒になる!」
と、畳み掛けるように言った。
 「なんだと、この…」
と言いかけて、慌てた玉珠の母に制されて玉珠の父は留まった。そして、軽く咳払いをす
ると、ややうつむき加減に
 「藤次郎君、そのせりふ…いったい、何年待ったことか…散々待たせたんだ、そばがき
くらい出してもおかしくはない」
と、心から搾り出すように言った玉珠の父の台詞は重かった。確かに、玉珠の両親をこの
日まで心配させた藤次郎が悪い。
 「そうね…そばがき持ってこようかしら…」
と、玉珠の母もポツリと言った。
 「そんな…おかあさんまで」
 玉珠が食って掛かりそうな剣幕だったので、玉珠の両親はお互いを見つめてそして頷き
合うと、ニッコリと笑って。
 「やだ…冗談よ!ちゃんとおそばの用意をしていますよ」
と、笑って玉珠の母は台所に行った。玉珠は、その言葉にその場にへたり込んでしまった。
 「おい、かあさん。ビールもたのむ」
 「はーい」
 「まったく…さんざん待たせてくれたんだ、この一言をいってやりたかったのさ」
と、言って玉珠の父はカラカラと笑った。
 「まったく…冗談にもほどあるわよ!」
 何とも言えない表情で玉珠が言うと、
 「しかし、玉珠があそこまで言うとは予定外だった…おまえが、私に逆らうとはな…」
と、感心していった。その言葉には何となく哀しみがあった。
 玉珠の妹の玉恵がビールを持ってきて言った。
 「おねえさん、おめでとう。おにいさまも…これからもよろしくね」
と言って、藤次郎の横にちょこんと座り、ビールを注ごうとしたが、
 「まてまて、最初の一杯は私からだ…」
と、玉恵を制して、玉珠の父はビールを玉恵から受け取ると、
 「まずは、一杯…」
と、言って藤次郎に向けた。
 「はい、いただきます」
 藤次郎はコップを取り、玉珠の父からのビールを受けた。
 やがて、玉珠の母が藤次郎達の前でそばを打ち始めた。
 「藤次郎さん、おそば好きですものね。玉珠にはこのそば作りを仕込んでありますから
ね、ほら、玉珠。あなたも打ちなさい」
 「はーい」
と、言って玉珠も支度をして、そばを打ち出し始めた。練りあがったそばを延ばし、そば
を切る。「ザク」と言う重い音が部屋に響く。
 やがて茹で上がった二人が打ったそばを出されて、すすめられるままに藤次郎はたぐる
と、
 「これで立派に我が家の婿殿ね」
と、玉珠の母は手を叩いて喜んだ、そして、
 「どうです?味の違いが判ります」
と、悪戯っぽく聞いた。
 「こし…でしょうか、それからのど越しも違うような…」
 藤次郎は上唇に人差し指を当て、そばの感触を思い出しながら、首を少しかしげて言っ
た。
 「どっちがおいしいの?」
 玉珠が乗り出して聞くと、
 「おかあさんの方がおいしいですね」
と言う藤次郎の言葉に玉珠はがっかりした。
 「どれどれ、わたしも」
と、言って玉珠の父も一口たぐると、
 「うーーん、まだまだかあさんの域には程遠い」
 そして、玉珠の母も一口すすると、
 「…そうね、まだこしが足りないわね」
 「ふーーんだ」
と、玉珠はむくれてしまった。その顔を見で玉珠の母は笑いながら、
 「藤次郎さん、もっと玉珠の腰を鍛えてやってくださいね」
 「…おかあさん、なにを言ってるの!」
 玉珠は、母の言葉の裏を知って、真っ赤になって怒った。
 「あら、いいじゃないの。もう夫婦みたいなものだから」
と、玉珠の母は笑って切り返した。一人、玉恵だけが会話から取り残されていた。

 …数十年後…
 「おい、お玉。そばがきもってこい!」
 「…はい(笑)」
と、言って藤次郎は娘を貰いにきた若者に対して、にやけながら言った。

							藤次郎正秀